ホーム > 一次資料アーカイブ (Primary Sources) > 英大衆紙『デイリー・メール』歴史アーカイブ> 『デイリー・メール』物語
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特定の新聞についてイメージを持つには、その読者層を理解するのが分かりやすい方法です。高級紙タイムズは、政治家、官僚、経営者などの国の指導者層、エリート層やその予備軍となる人々に読まれていると一般にはイメージされています。「タイムズは国を運営する人々によって読まれている(The Times is read by the people who run the country)」という言われるゆえんです。
それではデイリー・メールについてはどんな読者をイメージすればよいでしょうか。デイリー・メールが創刊される20年ぐらい前に、イギリスでは小学校が義務教育化されます。エリート教育ではないものの、読み書き算盤という基礎的な能力を身に着けた多くの人々が社会に登場し、19世紀の社会階層の分類では括られない新しい中間層が形成されたのです。デイリー・メールはこれらの中間層をターゲットとして、読みやすく簡潔な記事、面白い記事を売り物に、創刊されました。創刊当時は「多忙な人のための新聞(The Busy Man’s Daily Journal)」を謳っていました。伝統的な新聞人からは「給仕による給仕のための新聞(newspaper for office boys written by office boys)」と揶揄されたこともありました。給仕はともかく、読者イメージとしては都市郊外に住む普通のサラリーマンが最も近いと考えられます。
ところが、20世紀の後半になると、新しい読者層が加わります。女性です。デイリー・メールは創業以来、女性向けの記事を掲載するなど、女性読者を強く意識していましたが、1970年代以降その伝統に立ち返り、女性読者の取り込みに成功し、今や読者に占める女性の比率が半分を超える唯一の新聞として知られています。そのためか、デイリー・メールについて「国を運営する人々の夫人によって読まれる新聞(read by wives of the people who run the country)」という言い方がされることがあります。
イギリスの新聞の歴史の中で、デイリー・メールの創業者、ノースクリフ卿ほどの巨大な存在を探すのは容易ではありません。あのタイムズの歴代の社主でさえ、ノースクリフ卿ほどの影響力を持ちませんでした。その影響力の大きさは、しばしば「ノースクリフ革命」と呼ばれるほどです。ウィンストン・チャーチルは「デイリー・メールが創刊された時、歴史の新しいページが始まり、それまでの古いジャーナリズムからは眼を背けていた数百万の人々が新聞の読者になったのだ。」と言っています。
それでは、ノースクリフ革命とは何だったのでしょうか。それ以前の19世紀の新聞は、発行部数が少なく、事業としても小規模なものでした。タイムズの最盛期の発行部数はわずか5万部です。ところが20世紀になると、デイリー・メールをはじめ発行部数が100万部を超える新聞が出てきます。また、自社の株式を一般に公募したのは、新聞業界の中ではノースクリフ卿が最初です。近代的な事業としての新聞の誕生です。こうなると、少数の読者を相手に世論を導くという古典的な図式は成り立ちにくくなり、他の事業と同様、収益の追求という側面が大きく出てきます。全国的な配送体制が整備された結果、ロンドンの新聞が全国紙として地方に行き渡り、そのあおりを受けた地方紙の廃刊が相次ぎ、また、新聞の販売競争が激しくなるのも、ノースクリフ革命の一環です。この時以来、イギリスの新聞は、発行部数が少なく広告収入に依存する真面目で堅い内容の高級紙と、販売競争に鎬を削り、読者が興味を持ちそうな記事を載せる大衆紙に大きく分かれてゆきます。
大衆社会の到来を敏感に感じ取り、新しい時代に相応しい新聞のあり方を模索して、記事の内容やスタイルから新聞の経営まで、新聞というものを根本的に変えてしまった人物-それが、ノースクリフ卿です。そして、現代の新聞は依然として、ノースクリフ卿が幕を切って落とした舞台の上で演じていると言えるかもしれません。
デイリー・メールは、創刊当初から女性の読者を獲得しようと、女性向けの記事を掲載しました。といっても、女性の権利を高らかに掲げるといった進歩的なものではなく、ファッション、家事、有名人を取り上げた記事を掲載することで、女性に新聞に関心を持ってもらおうという、創業者ノースクリフ卿の考えから来ていました。すでに創刊号において、「女性の世界における動き、つまり、衣装、洗面所、台所など、諸々の家事に関する事柄は、日刊紙が取り上げるその他の大多数の事柄と同じくらいの関心を受けるに値する」と、女性向けの記事を重んじる新聞になることを予告しています。
女性の読者を重視する姿勢は広告の観点からも正しいものでした。この頃、イラスト入りの商品広告が新聞紙面を賑わすようになりました。家庭で財布の紐を握っているのが主として女性であるから、商品広告のターゲットはおのずから女性になります。広告主にとっては、女性が読みそうな記事を載せている新聞が広告媒体として魅力的になるわけです。新聞印刷用の紙が不足していたため、女性向けの記事に十分なスペースを割くことができなかった第一次大戦の頃、ノースクリフ卿は、代わりに女性向けの広告に力を入れました。
さらに、商品広告から展示会が生まれました。今もイギリスで開催されている”Ideal Home Show”という家具調度品をはじめとする生活にかかわる様々なグッズの展示会は、1908年デイリー・メールが始めたものです(当時の名称は”Ideal Home Exhibition”)。
デイリー・メールは、女性向けの記事や商品広告、商品展示会を通じて、人々の日常生活をデザインする新聞でもあったのです。
クリミア戦争のころ、イギリス軍の作戦の不手際をスクープしたタイムズは、時の内閣を退陣に追いやりました。タイムズがもっとも影響力を持ち、輝いていた時です。60年後の第一次大戦のころ、今度はデイリー・メールがイギリス軍の杜撰な作戦を追及しました。デイリー・メールは、すでに戦争が始まる前からドイツの脅威を警告し、軍備増強の必要を説き、好戦的な世論の形成に寄与していたのです。「戦争を起こすのに大きな影響を与えたのは、第一にドイツ皇帝、次にノースクリフ卿である。」と、言われたほどです。
軍の杜撰な作戦とは、武器弾薬の不足です。デイリー・ミラーは、「砲弾の危機:キッチナー卿の重大な過失」という陸軍大臣の責任を問う記事をノースクリフ卿自身が書いて掲載します。これらの追及に自由党内閣は持ちこたえられずに崩壊し、首相は交代しないまま連立内閣に移行します。しかし、それでも事態は改善しなかったため、デイリー・メールの政府批判は続き、ついにアスキス首相は退陣に追いやられました。
ノースクリフ卿は、新しく誕生したロード=ジョージ内閣で、政府高官としてアメリカに戦争協力を求める任務と敵国に対するプロパガンダを遂行する任務に携わりました。この時、弟ハロルド(ロザーミア卿)は空軍大臣に就任し、ライバル誌デイリー・エクスプレスの社主、ビーバーブルーク卿は情報大臣に就任します。大衆紙とその社主がこれほどの政治的な影響力をもったことは、イギリス史上かつてありませんでした。