Iraq: Records of the U.S. Department of State, 1888-1944
オスマン=トルコ統治下のイラクは行政上、バグダードと大半のクルド人が居住するモスルと大半のアラブ人が居住するバスラの三つの地域に区分されていました。オスマントルコ下のイラクでは、概して経済が混乱していました。19世紀後半、ミドハト=パシャら、改革志向の知事は、近代的な世俗学校の導入、軍隊の近代化、刑法典や商法典の制定、地方行政の近代化、交通網の整備等の近代化政策を実施しました。時代が下り、第一次大戦が始まると、オスマン=トルコはドイツ、オーストリアの同盟側について参戦しますが、この機に乗じて帝国内のアラブ人がイギリスの支援を受け、反乱を起こします。大戦中にイラクを占領したイギリスは戦後のセーヴル条約により、イラクを委任統治下に置きました。1921年にはイギリスの後ろ盾を得たハーシム家のファイサルが国王に即位、立憲君主制が成立します。1932年には独立を達成し、国際連盟に加盟しますが、建国後10年間は、部族と少数民族の反乱、軍部の反乱が頻繁に発生し、不安定な政治が続きました。第二次大戦二年目の1940年に首相に就任したラシード=アリー=ガイラーニー(Rashīd ‘Alī Gailani)は、イラクに亡命していたパレスティナ反英暴動の指導者ハーッジ=アミーン=アルフサイニー(Hājj Amin al-Husayni)と組み、枢軸側のドイツへの接近を試みます。これに脅威を感じたイギリスはラシード=アリー内閣を倒壊に追い込み、地中海への石油パイプラインを防衛するため、イラクに軍隊を派遣して占領し、親英政権を樹立します。この後、1958年までイラクは二人の新英的指導者が統治します。数次にわたり首相を務めたヌーリー=アッ=サイード(Nuri al-Saʿid)と、摂政アブド=アルイラーフ(Abd al-Ilah)です。独立以降、イギリスはイラクの支配階層に大きな影響力を及ぼしました。この間、近代的な世俗教育制度が拡大し、制限された形ではあれ、一般大衆も教育機会を拡大することができるようになりました。経済開発は緩慢だったとは言え、原油価格が上昇した1950年代には開発のテンポが速まりました。政治は汚職と不正選挙と少数の支配が蔓延しました。第二次大戦後にはイギリスの支配からの脱却と社会経済制度の改革を求める声が高まり、この潮流が頂点に達した1958年に軍事クーデタが発生しました。
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたイラクの政治、経済、社会、軍事動向に関する往復書簡です。往復書簡の他に、国務省スタッフが用意した報告書や覚書、国務省と外国政府との交信記録、国務省以外の省庁、民間企業、個人との往復書簡も収録されています。米国とイラクはイラクが建国した1931年に外交関係を樹立し、本コレクションがカバーする1944年まで4人の公使がイラクに派遣され、イラクの国内情勢と周辺国を含む地域情勢を本国に報告しました。建国以前のオスマン統治下とイギリス委任統治領の時代は、バグダードに設置された領事館から報告書が送られました。本コレクションは、19世紀末から20世紀半ばにいたるイラクと中東地域に関する政治、外交、経済、社会情勢に関する重要な情報を含む貴重なコレクションです。
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