Japan: Records of the U.S. Department of State Relating to Commercial Relations, 1950-1963
1945年の敗戦により、日本の対外貿易は連合国総司令官総司令部(GHQ/SCAP)の管理下に置かれました。公式の外国為替レート自体設定されない状況の中で、日本経済は外国との経済交流が規制された封鎖経済と化しました。
この状況が変化を見せるのは敗戦後4年目の1949年です。デトロイト連銀頭取のジョゼフ・ドッジがGHQ総司令部経済顧問として来日し、緊縮政策を断行し、インフレーションを沈静化させたことにより、貨幣に対する信認が回復されます。公式レートがなかった外国為替も1ドル=360円に設定されたほか、外国為替及び外国貿易管理法の制定、通商産業省の設置など、外国貿易を推進するための制度的環境が整備されました。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本はアメリカ軍にとって兵器や物資の供給源となり、これにより外貨不足が大きく解消されるなど、日本経済は好転しました。しかし、これは特需と言われたように、日本が朝鮮半島から地理的に近いための僥倖で、休戦により特需がなくなると、日本経済の構造的脆弱性が露呈しました。
このような状況の中で、特需に依存しない経済を実現するために、重化学工業化による輸出拡大が志向されるようになり、外資割当、政府系金融機関による低利での融資など、重化学工業に優先的に資金が供給される産業金融システムがそれを支えました。
これが奏功し、1955年には実質経済成長率が10%を超え、翌年の『経済白書』は「もはや、戦後ではない」と、戦後復興時代の終了を宣言します。1970年代前半まで続く高度経済成長が始まりました。
米国をはじめとする諸外国から貿易の自由化を求める声が高まり、1964年には国際収支の悪化を理由に為替制限を行なうことが認められない国際通貨基金(IMF)8条国に移行、同時に経済協力開発機構(OECD)に加盟し、先進国の仲間入りを果たしました。敗戦により封鎖経済に陥った日本経済は戦後20年足らずの間に開放経済へ移行することができました。
本コレクションは、1950年から1963年までのアメリカの対日通商関係に関して国務省が残した資料を提供します。国務省では国務長官の下で極東局(Division of Far Eastern Affairs)が対日政策の企画立案に関わっていましたが、通商政策もその重要な一側面をなしていました。国務省は駐日大使館に対日政策に関する訓令や指示を与え、駐日大使館は日本の政府や経済事情に関する情報収集や交渉を行ない、国務省に報告しました。駐米日本大使館も国務省の交渉相手であり、書簡や会談によって、交渉を行ないました。さらに、日米両国の通商政策の影響を受けるアメリカの産業界の声も国務省に届きました。
本コレクションは国務省、とりわけ対日政策を担った極東局が、駐日アメリカ大使館、駐米日本大使館、日米の業界団体等と交わした往復書簡を通して、戦間期を中心とする日米経済関係の動向に光を当てようとするものです。本コレクションは、米国国務省対日貿易関係文書のうち1950年から1963年までの文書を収録します。
※1910-1949年編も合わせてご検討ください。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to Commercial Relations of Japan, 1950-1963)
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