Occupation and Independence: The Austrian Second Republic, 1945-1963
第二次大戦末期、ソビエト軍はかつての社会党指導者で既に引退していたカール・レンナーを臨時政府の首班に担ぎあげました。政治的には反ソビエトの立場であったにもかかわらず、ソ連がレンナーを担ぎあげたのは、その高齢故に容易にソ連の傀儡政権になるとの思惑があったためです。しかし、レンナー率いる臨時政府はソ連の思惑に反して傀儡になることはありませんでした。1945年4月27日、臨時政府は、1938年のナチスによるオーストリア併合を無効化し、1929年の修正憲法に基づく民主的で独立したオーストリア共和国を再建する政令を発布しました。5月9日、オーストリアは連合国に占領され、オーストリア連合国委員会の管理下に置かれます。ドイツと同様、全国は米英仏ソ4ヶ国の占領地域に分断され、首都ウィーンも4つの地区に分断されました。
第二共和国では第一共和国と異なり、民主主義が安定しました。キリスト教民主主義を掲げる中道右派のオーストリア国民党と社会民主党の二大政党による大連立政権が1960年代半ばまで政権を担当しました。オーストリア共産党は建国当初から1950年まで、暫定政権に参加したものの、その後は党勢が衰退し、1959年には国民議会での議席を失います。唯一の野党として存在感を持っていたのは、1955年に結党したオーストリア自由党です。第二共和国の政治制度はポロポルツ、すなわち比例配分原理を特徴とします。プロポルツの下では、政治的重要性を持つポストが国民党と社会民主党の二大政党間で平等に配分されます。その結果、どのような法案も、広範なコンセンサスが得られなければ国民議会を通過することはできなくなります。
オーストリアは1955年5月15日、米英仏ソとオーストリア国家条約を締結、独立国家の地位を回復するとともに、米英仏ソの占領軍は撤退します。占領軍撤退後の10月26日、国民議会はオーストリアの中立性を決議、以後国際的に永世中立国としての地位を獲得することになりました。永世中立国の地位を獲得したとは言え、西欧の議会制民主主義を国是とし、1956年のハンガリー動乱をソ連軍が鎮圧した際は、反ソの立場を鮮明にしました。その一方で、東欧の共産主義諸国とは良好な関係を構築することに努め、1960年代初頭までにソ連・東欧諸国向けの輸出が輸出総額の6分の1を占めるまでになりました。
本コレクションは、第二次大戦後のオーストリアの内政事情をめぐり米国大使館と国務省の間で交わされた外交文書を収録します。収録文書は、政治・軍事に関する報告、社会経済事情の報告・統計データから、オーストリア政府高官との会談の議事録、公判記録その他の司法文書、米国の外交官が送受信した外交書簡・訓令・電信の全文、オーストリアの新聞・雑誌記事の切抜きや翻訳、政府高官の演説や政府公式報告など、オーストリア政府関係文書の翻訳まで、多岐にわたります。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Austria,1945-1949,1950-1954,1955-1959,1960-Jan. 1963)
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