The U.S. Military Advisory Effort in Vietnam: Military Assistance and Advisory Group, Vietnam, 1950-1964
トルーマン大統領は1950年3月、「インドシナに関する米国のポジション(The Position of the U.S. with Respect to Indochina)」と題した国家安全保障会議の文書(NSC64)を承認しました。この文書は「仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)は、共産主義者の手に落ちるのを座視してはならない重要な地域であり、米国はこの地域への共産主義の攻勢を阻止するための支援策を提供する」と宣言しました。しかし、この支援を受けるのがフランスなのか南ベトナムなのか、明らかにしていませんでした。フランスは米国の支援が直接、南ベトナムに渡るのを好ましく思わず、この地域に米国の軍事援助顧問団(Military Assistance Advisory Group, MAAG)が入ることに反対しました。しかし、物資や装備の要求、調達、供給を調整するにはこの種の組織が必要であると考えた米国はサイゴンに軍事援助顧問団を派遣しました。フランス軍最高司令部は戦略策定に際して米国援助顧問団の助言を無視し、ベトナム人への軍事訓練でも協力を求めず、進行中の作戦や将来の計画に関する情報の共有を拒みました。1952年までに米国が負担した戦費は三分の一に及んだにも関わらず、フランスの軍事作戦に米国が影響力を及ぼすことはほとんどありませんでした。しかし1954年頃になると、ようやくフランス軍は協力的な姿勢を見せるようになり、最高司令官アンリ・ナヴァール将軍は米軍連絡将校をベトナム軍に送ることを許可します。しかし、フランスの決断は遅すぎました。フランスは1954年のディエンビエンフーでの敗北を契機として、東南アジアからの撤退を決断します。1955年のワシントン会議で国務省高官とフランス海外領土省大臣は、米国が南ベトナムを直接支援すること、フランスからジョン・オダニエル中将指揮下の軍事援助顧問団へ軍事機能を移管することを合意しました。軍事援助顧問団の名称がベトナム軍事援助顧問団(MAAG Vietnam, MAAGV)に変わったことは、米国がベトナムに深く関与し始めたことを象徴的に示していました。
南ベトナムで共産主義者のゲリラ活動が頻発するにしたがい、ゴ・ディン・ジエム大統領は米国に軍事支援を求めるようになります。軍事援助顧問が殺傷する事件も発生しました。当初、軍事援助顧問団がベトナム軍の将校や指揮官のポジションに立つのを躊躇していたジエム大統領も、情勢悪化を受け、顧問団の要員増加を求めました。その結果、1960年には顧問団の要員は327人から685人へ倍増し、南ベトナム政府への影響力も拡大しました。ケネディ政権になると、米国のベトナム共和国陸軍(Army of the Republic of Vietnam, ARVN)への軍事支援は拡大し、軍事援助顧問団は経済援助使節団や国務省情報局と連携し、対ゲリラ作戦を展開しました。また、軍事援助顧問を大隊に割り当てることをジエム大統領が承認したため、顧問団要員は3,400人にも達しました。1964年、軍事援助顧問団は解散し、軍事顧問機能は1962年創設の軍事支援司令部(Military Assistance Command Vietnam, MACV)に統合されました。
本コレクションは、米国国立公文書館が所蔵するベトナム軍事援助顧問団の文書を収録します。収録文書は軍事訓練、物資・装備、弾薬、作戦計画、編成計画、兵站、予算、指揮官・将校、民間要員、諜報、防諜等に関する報告書、書簡、議事録等、軍事援助顧問団の内部文書です。