La France pendant la guerre 1939-1945: Résistance et journaux de Vichy (Voices from Wartime France 1939-1945: Clandestine Resistance and Vichy)
第二次大戦開戦後、英国王立国際問題研究所(RIIA, 通称チャタム・ハウス)は諸外国の新聞報道のサーベイを行なう機関として、外国調査報道部(Foreign Research and Press Service, FRPS)を設置し、調査結果を外務省等の政府省庁に提供しました。FRPSの本部はオックスフォード大学ベイリオル・コレッジに置かれ、アーノルド・トインビーが組織を統括しました。また、FRPSの調査結果を提供する媒体として、Review of the Foreign Press(RFP)が発行されました。
開戦の翌年(1940年)、ドイツ軍の侵攻を受けパリが陥落、休戦協定が締結されると、フランス国内の新聞の入手が困難になります。公式に発行された新聞の中には、イギリスの同盟国である米国やカナダを通して入手できたものもありますが、このルートでの入手が不可能の場合、中立国を通しての入手を試みました。ストックホルム駐在の英国公使館はドイツ軍占領国で発行されている新聞を購入し、週に一回イギリスに空輸するよう、外務省本省から訓令を受けました。リスボンの大使館付報道官経由で入手されたフランスの新聞もありました。
これに対して、非合法の地下新聞は事情が異なります。RFPを閲覧すると、FRPSが非合法の地下新聞を入手し、サーベイの対象としていたことは明らかです。入手方法に関しては不明な部分が多いのが実情ですが、ロンドンに亡命していたドゴールの自由フランスが重要な情報源であったと考えられています。初期の非合法新聞の一つ、ヴァルミーValmyの発行に関わっていたポール・シモン(本名ポーラン・ベルトラン)が1941年末にイギリスに亡命した時に携えていた新聞がドゴールを介してアンソニー・イーデン外相の手に渡ったと考えられます。あるスパイが地下新聞をスーツケースに格納し、イギリスに持ち込んだ事例もあります。
フランス国内のレジスタンス運動とロンドンの自由フランスの間の連絡は、レジスタンス運動の伝説的英雄ジャン・ムーラン(Jean Moulin)が地下出版・情報局を立ち上げ、非合法新聞をイギリスに送ったことで、顕著な改善を見ました。1942年の夏には、ロンドンに送られた新聞1部につき、250部が写真製版で複製され、他の連合国やソ連へ発送される流れが出来上がりました。このルートでイギリスに届いた非合法新聞の数は150紙におよびました。
フランス国内のレジスタンス運動とのもう一つの情報経路は、外務省の政治情報部(Political Intelligence Department)、1943年のFRPSとの統合後は外務省調査部(Foreign Office Research Department)です。この機関の主要任務は諸外国の情報の収集と日常生活の情報を収録したハンドブックの編纂でした。フランス部門には150人が所属し、フランスのラジオ放送や新聞、外務省内やフランス国内のスパイから届く秘密情報の整理と分析に従事しました。また、特殊作戦部(Special Operations Executive)のスパイ活動で得られた情報も届きました。これらの様々な情報が集められる中枢機関として、FRPSは陸軍省、陸軍情報部、海軍情報部、経済戦争省、政治戦争本部等、戦時政府省庁の情報センター的役割を担うにいたります。
このようにして収集されたフランスの新聞は戦後、王立国際問題研究所(RIIA)に一旦返却されたものの、RIIAの収納スペースに制限があったため、最終的に大英図書館に寄贈されることになりました。こうして、フランス国外では最大規模の第二次大戦期フランス国内の新聞コレクションが大英図書館に収蔵されることになりました。
(マイクロ版タイトル:Voices from Wartime France, 1939-45: Clandestine Resistance and Vichy Newspapers)