Socialism and National Unity in Yugoslavia, 1945-63: Records of the U.S. State Department Classified Files
第二次大戦末期にユーゴスラビア民主連邦臨時政府が成立し、1945年11月の選挙で共産党を中心とする人民戦線が勝利を収め、ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言されました。共産党の最高指導者のチトーが首相に就任し、軍も掌握しました。新生ユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国から構成される連邦国家で、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボに自治権が付与されました。多民族国家ユーゴスラビアを束ねるために掲げられた標語が「兄弟愛と統一」です。
建国後当初はソ連型憲法を制定し、産業を国有化し、国家が賃金、価格、資源配分、投資を統制するソ連型計画経済が実施されました。しかし、社会主義の路線を巡るチトーとソ連のスターリンの対立が次第に表面化し、ユーゴスラビアは1948年にコミンフォルムから除名されます。除名後もしばらくはソ連型計画経済を放棄することはありませんでしたが、農業生産が低迷し、強制的な経済運営が農民の支持を失い、農民の抵抗が都市部の飢餓の発生をもたらす恐れが出てくるにおよび、政府は経済政策を抜本的に転換します。
1950年には労働者自身が企業を管理経営する労働者自主管理法を制定し、個々の企業の労働者に経営責任を委ねます。これにともない、共産党は党内論争を自由化するなど、党の方針を転換し、スターリン主義の過去と決別するために、党名を共産党から「ユーゴスラビア共産主義者同盟」へ変更します。しかし、共産党の一党独裁が放棄されることはありませんでした。
1953年には国営集団農場の解体が始まり、9ヵ月の間に農民の3分の2が集団農場を離れ、個人の土地保有の制限を緩和します。さらに農業部門への投資促進等の一連の農業改革により、1950年代は農業生産が大きく改善する一方で、工業部門も成長軌道に乗り、工業製品の輸出が倍増した結果、ユーゴスラビアは1950年代後半、世界第2位の経済成長率を記録しました。
1953年のスターリンの死後、ソ連の新しい指導者フルシチョフはベオグラードを訪問し、チトーと会談し、ソ連は社会主義国が独自の路線を歩むことを認めるとの共同声明を発表するなど、両国の外交関係は改善の方向に向かい始めますが、1956年のハンガリー動乱により、この流れは途絶えます。その一方で、ユーゴスラビアは1950年代を通して、非同盟政策を外交政策の基調とし、東西両陣営に属さない第三世界の国々との関係強化に努めます。1961年の第一回非同盟諸国首脳会議をベオグラードに招致したユーゴスラビアは、会議主催国としての威信を高めることになりました。
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたユーゴスラビアの政治、経済、社会、軍事動向に関する往復書簡を収録します。他に、国務省スタッフが用意した報告書や覚書、国務省と外国政府との交信記録、国務省以外の省庁、民間企業、個人との往復書簡も収録されています。
米国は1945年から1963年まで、リチャード・パターソン・ジュニア(Richard Cunningham Patterson, Jr.)、キャヴェンディッシュ・キャノン(Cavendish Welles Cannon)、ジョージ・ベナブル・アレン(George Venable Allen)、ジェイムズ・ウィリアムズ・リドルバーガー(James Williams Riddleberger)、カール・ランキン(Karl Lott Rankin)、ジョージ・ケナン(George Frost Kennan)がユーゴスラビア大使を歴任しました。
本コレクションは1945年から1963年までの文書を収録します。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State relating to Internal Affairs: Yugoslavia, 1945-1949, 1950-1954,1955-1959, and 1960-1963)
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- 東欧・ロシア研究