George H. W. Bush and Foreign Affairs: Bosnia and the Situation in the Former Yugoslavia
冷戦終結後のヨーロッパでは、国家を超えて統合する動きと、民族や地域が自立化を強め、国家を解体する動きが生じました。前者の動きは1993年の欧州連合の成立によって一つの区切りを示しました。後者の動きは、様々な国で生じましたが、最も先鋭的な形を取ったのが旧ユーゴスラビアです。
元々、ユニークな自主管理型社会主義の下で、多民族を束ねていた連邦国家ユーゴスラビアでは、冷戦終結後、民族主義が台頭し、連邦国家が解体の危機に晒されました。まずコソボ自治州で紛争が発生し、スロベニアとクロアチアが独立を宣言し、連邦から離脱、民族主義のうねりはボスニアにも及びます。ボスニアは1992年に独立しますが、ムスリム、クロアチア人、セルビア人の政治勢力が独立後の国家運営の主導権争いで内戦に突入、ボスニア国内の民族対立にクロアチア共和国やセルビア共和国が介入し、1995年のデイトン合意で和平協定が締結されるまで、3年にわたり、激しい戦闘が繰り広げられ、多くの死者と難民が出ました。
この間、アメリカはEC(欧州共同体)や国連の方針に沿った形で対応しました。クロアチア政府とユーゴ連邦政府の対立に対しては、元国務長官で国連特使のサイラス・ヴァンス(Cyrus Vance)が仲介を試みました。ボスニア紛争を調停するために、ECの呼びかけで開催されたロンドン会議に参加し、ヴァンスは元イギリス外相のデヴィッド・オーウェンとともに、共同議長として調停役を推進します。ロンドン会議では、ボスニアの領土保全の尊重、ボスニアへの武器禁輸を定めた国連安保理決議の遵守、停戦合意後の国連平和維持活動の展開が合意されました。ブッシュ政権のボスニア政策はロンドン会議の合意事項に沿ったもので、ボスニア紛争を内戦とみなし、特定の勢力に肩入れすることなく、紛争当事者の話し合いによる解決を求め、軍事介入を政策の選択肢から除外しました。
しかし、アメリカ国内には、議会を中心に、ボスニア紛争を国際紛争と捉え、積極的な介入を求める声も存在しました。ボスニア問題は、1992年の大統領選挙でも争点となり、民主党のクリントン候補は、積極的な介入を求める立場から、ブッシュ政権を批判しました。アメリカのボスニア政策は、大統領選でブッシュを下したクリントンにより、積極的な介入政策へと大きく舵を切ります。一般的に、アメリカの政策形成においては、行政府の省庁とともに、大統領補佐官を筆頭とする大統領に直属する大統領行政府(ホワイトハウス)の組織が大きな役割を果たしています。特に、20世紀末以降は、外交・安全保障の分野において大統領行政府の組織の影響力が一層強くなっていると言われています。そのため、アメリカの外交政策を分析するためには、国務省の文書だけでなく、国家安全保障会議をはじめとする大統領行政府の文書にも目配りをする必要があります。
本コレクションは、ブッシュ政権のユーゴスラビア、ボスニア政策に関わったホワイトハウスの組織、具体的には、国家安全保障会議(National Security Council)、経済諮問委員会(Council of Economic Advisors)、政府間問題局(Office of Intergovernmental Affairs)、議会関係局(Office of Legislative Affairs)、政策開発局(Office of Policy Development)、公共連絡局(Office of Public Liaison)に送付された文書、これらの組織から発出された文書を収録し、ブッシュ政権のユーゴスラビア、ボスニア政策の形成過程を明らかにするものです。これらの組織の中でも、国家安全保障会議関連の文書のウェートは非常に大きく、アメリカ議会の議員、旧ユーゴスラビアの政治家等、それぞれの政治的ポジションからアメリカのボスニア政策に影響を与えようと試みる利害関係者の書簡は国家安全保障会議に集められ、政権が外交政策を構築する際の判断材料とされました。本コレクションは、ブッシュ政権がどのような情報を材料にして、どのような過程でボスニア政策を形成するにいたったのか、その政策形成過程を詳らかにするものです。
なお、本コレクションに収録される文書は、情報公開制度に基づく開示請求により公開された文書です。
(マイクロ版タイトル:George H. W. Bush and Foreign Affairs: Part 2: Bosnia and the Situation in the Former Yugoslavia)
さらに詳しく
関連分野
- 東欧・ロシア研究
- 政治学・外交研究
- 20世紀研究