Nineteenth Century Collections Online: Science, Technology, and Medicine, Part I
19世紀史料集成(NCCO)第7部:科学・技術・医学 パート1は、電気、電磁気から、数学、工学、天文学、天体物理学、色彩理論、自然選択論、地質学、鉱物学、化学、医学まで、19世紀の科学の生成の現場に誘う古典、近代初頭以来続いた探検の時代の最後を飾る19世紀の探検の記録を収録し、19世紀の科学上の発見を一望の下に収めるほか、同時代に刊行された専門誌や教科書を通して現代の学術情報流通と大学教育の制度化の歴史的起源に迫ります。収録資料の多くは、近年バーンディ・ライブラリーを購入し、科学技術史関係コレクションとして質量ともに世界最高水準を誇るハンティントン図書館の所蔵資料です。
《収録コレクション》
- Academy of Natural Sciences of Philadelphia: Minutes and Correspondence(フィラデルフィア自然科学アカデミー 議事録と書簡)
ドレクセル大学自然科学アカデミーは、科学と有用知識の振興を目的として1812年に設立された米国最古の自然科学の機です。科学振興に止まらず、西部の探検のオーガナイザーとしても活動し、探検家が持ち帰った動植物の新種は、アカデミーで研究、標本化され、現在1,800万に達する膨大な標本コレクションの基礎を築くことになりました。同アカデミーは、19世紀半ばに創設されたスミソニアン学術研究協会と並び、新興国アメリカの科学研究を牽引し、20世紀に入って世界をリードするアメリカの科学研究の素地を作る役割を果たしました。本コレクションは、科学アカデミーの会議録、書簡、所蔵資料の概要を説明した資料、会員リスト、科学アカデミーへの寄付の記録原簿をアカデミー創立の1812年から1924年まで100年以上に亘り収録します。書簡については、1817年から1840年まで自然科学アカデミーの理事長を務めたウィリアム・マクルアら19世紀アメリカ科学界を代表する人物の書簡が収録されています。会議録からは、科学アカデミーの運営、寄付などを通じて所蔵コレクションを拡大していったプロセス、最初の女性メンバーであるルーシー・セイが選出された経緯、博物誌の研究を目指す貧しい人々や女性のためのオーガスタス・ジェソップ奨学金の創設等の事情が分かり、19世紀アメリカの自然科学をリードした自然科学アカデミーの足跡を記録する第一級の資料です。また、ダーウィンらアメリカ内外の科学者の書簡は、当時の科学コミュニケーションの実態を明らかにすることにより、19世紀の偉大な科学上の発見に関する興味深いエピソードを提供します。
- American Medical Periodicals(アメリカ医学雑誌:206誌)
19世紀アメリカ医学史全体を視野に収める重要な定期刊行物を集めています。世界最大の医学図書館、アメリカ医学図書館を原本所蔵機関とする本コレクションには、200誌以上の雑誌の雑誌記事が収められています。感染理論の進化、医学倫理の変化、医学の専門化の深化、医学協会や医学教育の発展など、19世紀アメリカ医学界の関わったすべての領域に光が当てられています。さらに、非正統的医学や歯科や薬学などの周辺領域にも主題は及んでいます。アメリカ最初の医学雑誌『メディカル・リポジトリー(Medical Repository)』は1797年に創刊、1824年まで続きました。1803年の論説欄では自誌の出版を医学出版の革命と述べています。医学誌は次第に医学情報を伝達する不可欠の手段と見なされるようになります。1850年までに200誌以上の医学誌が創刊され、19世紀後半増加し続けました。本コレクション収録の雑誌は、地域誌の性格を持っていたものや短命のものが多く、一定の期間刊行が続けられ、全国規模で発信していた雑誌はむしろ少数派です。『アメリカ医学会紀要(Transactions of the American Medical Association)』(1848-1882)は医学会の年次総会の議事録を再刊し、1883年に『アメリカ医学会誌(Journal of the American Medical Association )』が創刊されるまでアメリカ医学界のための広報的役割を担っていました。本コレクションは今日におけるコア医学誌の初期の歴史を辿るのにも有益です。『Boston Medical Intelligencer』(1823-1828)と『New England Journal of Medicine and Surgery』(1812-1826)は、1828年に統合され、『Boston Medical and Surgical Journal』となりますが、19世紀アメリカ医学界最高の雑誌ともいうべき本誌は、『New England Journal of Medicine』の前身に当たります。雑誌名が示す通り、19世紀アメリカの医学出版は北部の都市を拠点としたものでした。特にニューヨークとフィラデルフィアの占める比率が高く、本コレクションにはニューヨークで発行された雑誌約50誌とフィラデルフィアで発行された雑誌約40誌が収められています。しかし、最大規模の発行部数を誇った全国規模の医学誌を参照するだけでは、19世紀アメリカ医学史の重要な側面が見失われます。本コレクションには『Southern Medical and Surgical Journal』(1836-1867)や短命の『Carolina Journal of Medicine, Science, and Agriculture』(1825)など、南部で発行された医学誌も収録されています。これらの雑誌は、奴隷の治療に代表される南部固有の問題を検証する際の重要な典拠資料です。その他、ジェンダー等の社会的規範、農業医療、治療薬市場の地域的相違といった地域に特化した問題を記録する記事も多数含まれています。名物医者のエピソードや地域の関心を集めた話題など、地域をベースに発行された雑誌ならではの情報が盛り込まれた医学誌は、19世紀アメリカ医学史の地平を広げるでしょう。本コレクション収録雑誌を利用者として想定されているのは、必ずしも医学史の研究者だけではありません。結婚観や子どもの養育観の変化、アメリカ文化における減量と運動の重要性の高まり、治療薬市場改革の初期の試みなど、広範な主題を扱う雑誌記事は、医学史を超えて社会史の領域にまで及んでいます。
- Astronomy and Astrophysics(天文学と天体物理学 書籍697タイトル)18世紀が星の分類と星の位置の測定において大きな進歩を遂げた時代とすれば、19世紀は天体観測の機器の性能が飛躍的に改善した時代です。観測機器なしに成立しない天文学は必然的に技術の進歩に左右されます。屈折望遠鏡の性能向上など、19世紀における望遠鏡の性能向上は、ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer),アルヴァン・クラーク(Alvan Clark), ジョン・ブラシアー(John Brashear)らの著作の中にその証言を見ることができます。アメリカの天文学者、デヴィッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)の回折格子、ジョージ・ウィリス・リッチ―(George Willis Ritchey)の天体写真術など、夜空や太陽を観測する技術が向上したのも19世紀です。ジョージ・ヘイル(George Ellery Hale)、リチャード・キャリントン(Richard Carrington)、グスタフ・キルヒホーフ(Gustav Kirchhoff)らにより、太陽の研究が大きく進みます。特に、ヘイルは初めて太陽活動周期と黒点の活動の周期的変化を物理的に基礎づけ、光の単一波長で太陽の写真画像を把捉する分光太陽写真儀、裸眼で太陽光の単一波長を見ることを可能にするヘリオスコープを発明しました。天文学者の中には、愛好家や学生向けに啓蒙的な著作を書いた人もいました。エリアフ・バーリット(Elijah Burritt)の『天空の地理(The Geography of the Heavens )』、トーマス・ディック(Thomas Dick)の『星空(The Sidereal Heavens )』、サイモン・ニューカム(Simon Newcomb)の『万人の天文学(Popular Astronomy)』などの啓蒙書は、天文学を大衆レベルまで普及するのに貢献しました。女性の天文学者も活躍しました。ドイツ系イギリス人のキャロライン・ハーシェル(Caroline Herschel)は彗星を発見し、1789年ロイヤル・ソサイエティから初版が刊行された恒星目録を19世紀になって改訂し続けました。ハーバード大学のアニー・ジャンプ・キャノン(Annie Jump Cannon)は、同時代の恒星分類に大きく寄与した分類法を編み出しました。ハナ・メアリー・ブーヴィエ(Hannah Mary Bouvier)の『Familiar Astronomy 』, メアリー・ウォード(Mary Ward)の『Telescope Teachings』, アグネス・クラーク(Agnes M. Clerke)の『A Popular History of Astronomy in the Nineteenth Century』, アラベラ・バックリー(Arabella Buckley)の『Through Magic Glasses』など、女性作家による科学啓蒙書は多くの読者を獲得しました。19世紀後半以来、大きな発展を遂げた天体物理学はジェームズ・マクスウェル(James Clerk Maxwell)により基礎を固められました。スコットランドの理論物理学者であるマクスウェルの天体物理学、とりわけ電磁場の研究は20世紀の物理学に大きな影響を及ぼし、ニュートンやアインシュタインにも匹敵する業績であると見做されています。この分野の研究者としては、『物質とエネルギーの基本性質(The Essential Nature of Matter and Energy)』のエドウィー・ハンド(Edwy Hand)、『天体物理学の諸問題(Problems in Astrophysics)』のアグネス・クラーク(Agnes Clerke)、分光学を精力的に研究し、天体物理学の様々な主題で多くの著作を残したウィリアム・ハギンズ(William Huggins)らがいます。ジョージ・ヘイルがジェームズ・キーラ―(James Edward Keeler)とともに1895年に創刊した『天体物理学誌(Astrophysical Journal)』は、今日この分野でのコアジャーナルとして見なされています。19世紀における天文学の出版事情は多くの面で、最先端の科学技術だけでなく、政治力、財政力でも卓越していた研究機関によって支えられていました。1839年創立のハーバード大学天文台(Harvard College Observatory)は世界最大の望遠鏡を有し、機関誌『ハーバード大学天文台年報(Annals of the Astronomical Observatory of Harvard College)』を1855年創刊し、エドワード・ピッカリング(Edward Charles Pickering)を所長に迎えました。その他、天文学の雑誌は、世界最大の屈折望遠鏡を有していたリック天文台(Lick Observatory)、近代天体物理学生誕の地と言われるヤーキス天文台(Yerkes Observatory)、マウント・ウィルソン天文台(Mount Wilson Observatory)によっても刊行されました。
- Civil Engineering(土木工学 書籍601タイトル)
「土木技師(civil engineer)」の語が最初に英語文献に登場した18世紀後半、この語は軍事以外の工学全般の意味で使われていました。土木工学の文献としては、道路、運河、鉄道などの建設物に関する設計者による顧客向けの報告書が、17世紀以降大量に出されました。この種の報告書は、専門雑誌が創刊されるまでは土木技術を継承する唯一の媒体として活用されていましたが、入手が極めて困難なものです。土木工学の分野の専門雑誌が創刊されると、この種の報告書の必要性は弱まり、橋梁に代表される大規模な建設物においてのみ使われました。カルヴィン・ウッドウォード(Calvin Woodward)の『セントルイス橋の歴史(History of the St. Louis Bridge)』やウィルホム・ウェストホーフェン(Wilhom Westhofen)の『Forth Railway Bridge』は、この種の橋梁に関する報告書の例です。教科書の出版は、当該分野の知識体系が確立し、学術書市場が一定の規模に達していることを前提としています。土木工学では19世紀半ば以後、学術書・教科書出版が軌道に乗ります。当初の学術書が扱っていたのは設計のコアな側面であり、構造面はロバート・バウ(Robert H. Bow)の『ブレーシング論(Treatise on Bracing)』のような実務家によるものでしたが、その後、学者による学生向け教科書も刊行されるようになりました。英語圏における土木分野の教科書は、デニス・マハン(Dennis H. Mahan)による米国陸軍士官学校用に書かれた『初等土木工学(Elementary Course of Civil Engineering)』に始まります。当時、国の助成なしに、この種の出版を行なうことは困難であり、ジョン・ウィール(John Weale)のような専門出版社により手掛けられました。王立陸軍士官学校のピーター・バーローがその著書で鉄のデータを収録して以来、種々の素材データが書籍の中に盛り込まれるようになるとともに、データ計算のための様々な方法が編み出されます。オーガスタス・デュボイス(Augustus Du Bois)『骨組構造物におけるひずみ(The Strains in Framed Structures)』に代表される19世紀後半の教科書はこの種の主題が全編を貫いています。ロンドンの土木技師協会が過去の技師を顕彰するために伝記出版を後援していたこともあり、19世紀には土木技師の伝記が多数出版されましたが、中でも記念碑的出版と言えるのが『自助論』で有名なサミュエル・スマイルズの『技術者たちの生涯(Lives of the Engineers)』です。本書はその後の技術者伝の嚆矢となりました。アメリカでは、1852年にアメリカ土木技師協会が創設され、運河建設の専門家、ウィリアム・バー(William Burr)による著作、アメリカ西部の大規模土木プロジェクトに関する著作など、会員による著作が世に出るようになりました。各国で開催された万国博覧会は技術者や科学者の関心も集め、開催期間中、各国の技術者、科学者による国際会議が開かれるなど、技術者や科学者の国際交流が促進しました。スエズ運河やパナマ運河のような国家規模のプロジェクトでは政府が国際規模で専門家から助言を求めました。
- Color Theory and Practice(色彩理論と応用 書籍291タイトル)
ヘルマン・ヘルムホルツ(Hermann Helmholtz)が減法混色と加法混色を区別したことにインスピレーションを受けたヘルマン・グラスマン(Hermann Grassmann)は色の第三の要素、彩度を見出しました。色相は波長により決定される色の性質を指し、明度は白や黒への近接の度合を指し、彩度は色相の度合を指します。ヘルムホルツの色彩理論を発展させたジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)は『混合色論(On the Theory of Compound Colours)』(1860)を刊行、デーナ・エステ(Dana Estes)とハインリッヒ・シェレン(Heinrich Schellen)は音、熱、光、色に関する最新理論を援用し、『要説スペクトル分析(Spectrum Analysis Explained)』(1872)を発表、色彩が人間の知覚に基礎を置くことを強調しました。20世紀に入ると色彩理論は心理学や進化生物学にも応用され、加えて一般読者の関心を集めるようにもなります。アーサー・ハット(J. Arthur H. Hatt)の『カラーリスト(The Colorist)』(1908)は最新の化学と色彩工業研究を統合し、一般読者や色彩に携わる職業専門家向けに平易に解説し、多くの読者を獲得しました。色彩に関する参考図書は、色彩についての共通語彙を提供することに寄与しました。ロバート・リッジウェイ(Robert Ridgway)が自費出版した『色彩の標準と術語(Color Standards and Color Nomenclature)』(1912)はその代表的なものです。色彩理論を芸術に戻す試みとしては、カール・ゴードン・カトラー(Carl Gordon Cutler)とスティーヴン・ペッパー(Stephen C. Pepper)が『現代色彩論(Modern Color)』(1923)の中で、自然光をモデルにしたカラースケールを編み出しました。
- Electricity and Electromagnetism(電気学と電磁気学 書籍1,542タイトル)
18世紀から19世紀にかけての世紀転換期、電気に関する研究は開花しました。二つの帯電した物体の間に働く力は距離の二乗に反比例することを発見したシャルル・クーロン(Charles Augustin Coulomb)の『電気と磁気について(Mémoire sur l'électricité et le magnétisme)』(1785)、電気学の先行研究を要約したジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)の研究などがこの時期に刊行されました。論文は、著名な『フィロソフィカル・トランザクションズ』や『自然哲学・化学・技芸誌』のような比較的新しい雑誌に発表されました。電気と磁気との関係を発見したハンス・クリスティアン・エルステッド(Hans Christian Ørsted)の『磁針に対する電流の影響に関する実験(Experimenta Circa Effectum Conflictus Electrici in Acum Magneticam)』(1820)も、この時期の電気の研究を促した画期的研究です。イギリスのファラデー(Michael Faraday)、アメリカのジョゼフ・ヘンリー、フランスのアンペール(André-Marie Ampère)は様々な電磁気現象に関する実験を行ないました。アンペールの『電気力学現象の数学理論(Mémoire sur la théorie mathématique des phénomènes électrodynamiques)』(1827)は、帯電した物体や磁石に対する電流の影響を研究したものであり、ファラデーの『電気の実験(Experimental Researches in Electricity)』(1839-1855)はファラデーの電磁気現象に関する研究の集大成として刊行されました。19世紀の後半に入ると、電気の実験は数学を使ったものになり、研究書はより精緻なものになります。マクスウェルが1865年『フィロソフィカル・トランザクションズ』に発表した『電磁場の動力学理論(Dynamical Theory of the Electromagnetic Field)』では、光は電磁波であると定式化されました。電場と磁場の関係の数学的定式化は、1873年の『電気磁気論(Treatise on Electricity and Magnetism)』でさらに厳密なものになりました。電磁気学のブレークスルーに加え、通信システム、都市の照明、交通の分野でも技術革新がもたらされました。モールスの電信、エジソンのカーボン電球に代表されるこれらの技術革新は、第二次産業革命とも称されています。また、ハインリッヒ・ヘルツ(Heinrich Hertz)は電磁波の速度が光速に等しいことを示し、ケンブリッジ大学のジョージ・ジョン・トムソン(Joseph John Thomson)は電子を発見しました。19世紀から20世紀への世紀転換期には、マルコーニ(Guglielmo Marconi)らが、無線電信の実験を始めました。電気の生成を解明しようとして始まった19世紀の電気学は、19世紀を通して、電気現象と磁気現象が不可分に結びつき、化学過程が電気と電磁波を生成することを理解するに至りました。電気現象を研究する人を指していた18世紀の「電気技師(electrician)」という言葉は、19世紀になり電気回路に関する専門知識を有する人を意味するようになりました。19世紀の電気に関する研究は研究室の学者を超え、発明家、実業家、一般大衆を魅了するところとなり、20世紀の更なる発展を準備することになりました。
- Evolution and the Origin of Species(進化論と種の起源 書籍647タイトル)
1844年、スコットランドのジャーナリスト、ロバート・チェインバース(Robert Chambers)は匿名で『創造の自然史の痕跡(Vestiges of the Natural History of Creation)』を刊行しました。生物の変異に関する概念を掘り下げ、万物が変異するものであると説いた本書は狭義の生物学界を超えて大きな反響を呼び、12版まで版を重ねました。チェインバースはダーウィン進化論の登場の露払い役となり、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)に種の変異を確信させる役割を演じました。チェインバースの著書が大きな批判に晒され、ダーウィンが自著の刊行を躊躇した面はあったものの、『痕跡』が種の変異に人々の関心を振り向けるのに多大の貢献を果たしたことは、ダーウィン自身の認めているところです。ダーウィンの進化論の構想は、5年に亘るビーグル号の航海からの帰還直後にまで遡ります。ダーウィンは種の変異についての考えを、地質学者のチャールズ・ライエルや生物学者のジョゼフ・フッカーといった親しい友人たちにだけ明らかにするに止め、広く世に問うには、多くの証拠を集めなければならないと考えていました。ダーウィンの祖父、エラズマス・ダーウィンが18世紀末、進化論の原型となる著述を著していたこともダーウィンに影響を与えました。進化論に関するダーウィンの最初の出版物は、1858年『ロンドンリンネ協会誌』にウォレスの論考と併せて掲載されました。これを拡大したのが翌年の『進化論』第1版です。物議を醸すことを恐れたダーウィンは種の究極の起源についての説明は注意深く控え、人類以外の進化に焦点を当てました。世界各国の博物学者との書簡から得られた夥しい数の実例や先行する学者の著作をエビデンスとして、自らの科学理論を補強したのです。周知の通り『種の起源』は出版直後から学界を超えて衝撃を与え、各国語に翻訳されました。最初のドイツ語訳の翻訳者、ハインリッヒ・ブロン(Heinrich Bronn)は自身も進化論に関しては一家言を持っていた人物で、いかなる進化論も自然発生説と手を携えなければならないと考えていましたが、これはダーウィンが慎重に避けていた問題です。フランス語訳の翻訳者、クレマンス・ロワイエ(Clémence Royer)は、反教権的な長大な序文と脚注を加えることで、原著出版時のダーウィンの用心を無効にしたほどでした。このように、翻訳には原著者の意向から逸脱するものがあったにもかかわらず、ダーウィンは外国語への翻訳が自分の考えを普及させると考えていました。ダーウィンの生存中、原著の英語版は6回改版し、少なくとも28カ国語に翻訳されました。ダーウィンの自然選択論は『種の起源』以外の著作でも展開されました。ダーウィンの著作は帰納的方法によるものであれ演繹的方法によるものであれ、入念な方法に基づき組み立てられています。1,000ページ以上に及ぶ蔓脚類の著作により、ダーウィンはフジツボの世界的権威の地位を確立します。ラン科植物とその受精、蔓性植物、栽培化の下での変異など広範囲の主題で著作を残したダーウィンは、自然界の実例をもっと進化論を補強することを試みたと言えます。人間の進化に関する議論が物議を醸すことを恐れ、『種の起原』刊行後もそれへの言及を控えていたものの、進化論が徐々に受け入れられるのを見たダーウィンは1871年、『人間の進化と性選択(Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』を発表します。本書は進化論を人間の進化に応用した最初の著作であり、それまでの性選択の著述を拡大したものでもありました。加えて、進化心理学、倫理、人種と性の相違、配偶者選択における女性の役割といった問題領域にも分け入っています。本書で考察された主題をさらに展開すべく、翌年『人間と動物の感情表現(Expression of the Emotions in Man and Animals)』を刊行します。本書では人間の性格の遺伝の問題が、他の人間からの遺伝という観点に加えて、動物の先祖からの遺伝という進化論の観点からも考察を加えられています。進化論の受容はダーウィンの盟友、トマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)の著作によっても促進されました。その『自然界における人間の位置に関する証拠(Evidence as to Man's Place in Nature)』(1863)は、共通の祖先という観点から人類と類人猿の進化の考えを擁護したものです。ダーウィンもハクスリーも多様な経験と科学的知識を進化についての著述に盛り込むことに努めました。言うまでもなくダーウィンの進化論は激しい論争を巻き起こしました。ジョージ・マイヴァート(George Jackson Mivart)は『種の生成(On the Genesis of Species)』(1871)の中でダーウィンの自然選択論に対して長大な反論を加えました。ダーウィンの議論は生物学以外の分野にも拡大しました。物理学者のジョン・ティンダル(John Tyndall)は『科学に弱い人々のための科学断片(Fragments of Science for Unscientific People)』(1871)の中で、祈祷の効能に疑問を投げかけます。もっとも、進化論に賛同する多くの人々同様、ティンダルも宗教に反対という立場ではありませんでした。それどころか、ダーウィンの支持者の多くは強い信仰心を持っていました。19世紀の最も重要な植物学者の一人でダーウィンの友人でもあったエイサ・グレイ(Asa Gray)は有神論と合理的な科学的探求の間には矛盾はなく、自然の設計は高次の力に由来すると、ダーウィンを説得することに努めました。1876年に刊行した『ダーウィニアーナ(Darwiniana)』は、ダーウィンの進化論と神学思想の調停を試みたものです。進化論は1882年のダーウィンの死以後も発展を続けました。ポスト・ダーウィンの進化論の中では、個体発生は系統発生を繰り返すとしたエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)の反復説が挙げられます。ヘッケルは『自然創造史(Natürliche Schöpfungsgeschichte)』(1868)の中で、進化が22の段階で構成されていると説きました。世紀転換期における進化論の最も重大な変化は、進化論に遺伝学が導入されたことです。個人から個人へ、また世代を通じて情報が伝達する方法については、グレゴール・メンデル(Gregor Mendel)が、遺伝された特質が今日遺伝子として知られる要素の組み合わせによって伝えられると論じたことで、初めて解明の一歩を踏み出しました。メンデルの仕事は忘れられますが、その後ウィリアム・ベイトソン(William Bateson)により1890年代に甦ります。ベイトソンの記念碑的著作『変異の研究の資料(Materials for the Study of Variation)』(1894)は現代遺伝学研究の扉を開き、パンゲネシスと呼ばれたダーウィンの遺伝仮説に置き換わる遺伝説への道を拓くことになります。自然選択説と遺伝学が統合されることにより、進化論は一層広範に受容されるようになり、定向進化や単線進化といった従来の仮説は忘却されるようになりました。
- Mathematics(数学 書籍1,725タイトル)
19世紀、抽象代数学、非ユークリッド幾何学、複素函数など、数学は劇的に変化し、経済学から計算機科学まで広範囲の新しい領域を生みました。本コレクションは、19世紀数学の知的歩みの過程において生み出された重要な文献を収録します。19世紀の数学は、レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler)、エミリー・デュ・シャトレ(Émilie du Châtelet)、マリア・ガエターナ・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi)、ジョゼフ・ルイ・ラグランジュ(Joseph Louis Lagrange)、コンドルセ(Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)ら18世紀の数学者が蒔いた種が全面的に開花したことによるものです。数学の革命家オイラーは、函数、因数、複素数など今日使用される数学表記法に多大に貢献し、ラグランジュは『解析力学(Mécanique analytique)』(1788)で力学に解析の方法を応用し、ニュートン力学と最新の数学理論を架橋、コンドルセは確率論に大きな業績を残しました。現代同様この時代も、数学者の画期的な業績は、その多くが学位論文や教授資格取得論文として発表されました。ガウス(Carl Friedrich Gauss)はその教授資格取得論文で平方剰余の相互法則の証明を行い、以後数学の多くの分野で業績を残し、19世紀数学界に甚大な影響力を及ぼしました。また、ガウス曲率と驚異の定理を定式化した『曲面の研究(Disquisitiones generales circa superficies curvas)』により微分幾何学を確立しました。解析幾何学を創始したアウグスト・メビウス(August Ferdinand Möbius)は、1827年の『重心の計算(Der barycentrische Calkul)』において、射影幾何学、疑似幾何学、同次座標、幾何学変換の概念を導入しました。同年、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach)は同次座標に関する論文を発表、続いてユリウス・プリュッカー(Julius Plücker)は『解析幾何学大系(Analytisch-geometrische Entwicklungen)』により近代幾何学を確立しました。パフヌティ・チェビシェフ(Pafnuty Lvovich Chebyshev)は数学界を震撼させた合同の理論でベルトランの仮説を証明、リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann)はリーマンゼータ函数を提示しました。ガウスやルジャンドルも同様の函数を試み、ペーター・グスタフ・ディリクレ(Peter Gustav Lejeune Dirichlet)の素数、函数、変数に関する業績は統計学の基礎を築きました。19世紀は様々な学問分野において数学の方法が応用された時代でもあります。ジョゼフ・フーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier)は数学の物理学への応用の先鞭をつけ、アントワーヌ・クールノー(Antoine Augustin Cournot)は数理経済学の始祖とされています。1847年、ド・モルガン(Augustus De Morgan)は、ド・モルガンの法則として知られる二つの法則を提示し、集合論を創始、ゲオルク・カントールとジョージ・ブールも同じく集合論の発展に多大の貢献をします。ブールは論理学と確率論に革新をもたらし、今日ブール代数と知られる新しい方法により論理学を構築しました。19世紀末、数学のコア概念は急速に発展を遂げます。マックス・プランクが量子論を提示するのは1901年になってからですが、マクスウェルは1873年の『電磁気学(A Treatise on Electricity and Magnetism)』でその後マクスウェルの方程式と呼ばれる4つの偏微分方程式を提示、量子論への道を拓きます。数の性質を理論化したリヒャルト・デデキント(Richard Dedekind)は数の性質を理論化、ハインリッヒ・ヴェーバー(Heinrich Weber)は、代数学教科書のベストセラー『代数学教程(Lehrbuch der Algebra )』(1895)を刊行、現代幾何学の基礎を築いたヒルベルト(David Hilbert)の『幾何学原理(Grundlagen der Geometrie )』は幾何学の公理を体系化しました。19世紀における数学の躍進は世紀が変わっても止まることはなく、とりわけ数学の形式化が進みました。数学に論理学の基礎付けを委ねることを目指したラッセルとホワイトヘッドは、1910年『プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica)』の第1巻を世に送り出します。幾何学を扱う第4巻が公刊されることはなかったものの、最初の3巻は、有限演算、超限演算、集合論、論理学などを含むそれまでの数学の集大成とも言えるものでした。第一次大戦中、その反戦行動により収監されたラッセルは、獄中で『数理哲学序説(Introduction to Mathematical Philosophy )』(1919)を執筆しました。
- Reports of Explorations Printed in the Documents of the United States Government(米国政府文書に印刷された探検報告書 書籍578タイトル)
- Scientific and Technical Periodicals from the Royal Society of London’s Catalogue of Scientific Papers, 1800-1900(ロンドン王立協会科学論文カタログに基づく科学技術定期刊行物)
本コレクション収録の雑誌を通して、雑誌の専門化が進んだ19世紀の科学的発見と科学理論の軌跡が見えてきます。昆虫学、鉱物学、記載岩石学、動物学など様々な学問分野でヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の学者が貢献した科学の進歩のプロセスが明らかになります。『昆虫学レヴュー(Révue entomologique)』『科学のアーカイブ(Archives of Science)』などの短命雑誌から、フィラデルフィア自然科学アカデミー、ウッズホール海洋生物学研究所、王立地理学協会、ニューヨーク科学アカデミー、バイエルン科学アカデミーなど著名な研究機関の紀要まで、幅広く収録しています。収録雑誌の中には、その分野の画期をなす論文を掲載しているケースが少なくありません。『フィラデルフィア自然科学アカデミー雑誌(Journal of the Academy of Natural Sciences of Philadelphia)』は、6つの新しい魚の種を発見したフランスの博物学者シャルル・ルスール(Charles Alexandre Lesueur )による1817年の論文に始まり、100年後の考古学者クラレンス・ムーア(Clarence B. Moore)の一連の論文で終わっています。『王立地理学協会紀要(Proceedings of the Royal Geographical Society)』の第1巻は、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、デイヴィッド・リヴィングストーン、ヴィルヘルム・ハイディンガー、アレクザンダー・フォン・フンボルトの論文を掲載しています。さらに、これらの雑誌によって科学上の論争を追跡することもできます。19世紀の最も有名な論争であるダーウィン理論を巡る論争は『Cistula Entomologica』や『Zoologist』など多くの雑誌で取り上げられました。