The Times Educational Supplement Historical Archive, 1910–2000
「TES」の頭文字で知られる世界有数の教育専門誌『タイムズ教育誌(The Times Educational Supplement, TES)』の1910年創刊から2000年までを収録するアーカイブです。
TESは英高級紙『タイムズ』の補遺として1910年9月6日に創刊されました。1914年からは単独の刊行物となり、1916年以降は月刊から週刊に変わり、現在に至っています。創刊当初はパブリック・スクールやグラマー・スクールのようなエリート校に関する教育誌の性格が強かったTESは、1940年に就任したハロルド・デント(Harold Dent)編集長の時代に教育関係者全般を読者とする教育総合誌へと脱皮することに成功するとともに、地方の公立学校関係者とネットワークを築き、購読機関や求人広告を増加させたことで、雑誌の経営基盤も安定化しました。
以後、戦後の経済成長と就学者数や教員数の増加の中で、1945年に2万部程度だった発行部数は、1960年には7万部、1980年代末には12万部と拡大の一途をたどります。またTES成功の蔭の立役者と言われたフランク・デリー(Frank Derry)広告担当重役のもとで広告収入が増加、1980年代末には求人広告の増加を受けてページ数が拡大し、2部構成となります。1965年にはスコットランドの教育情報に特化したスコットランド版が始まりました。
TESはイギリス国内外の教育に関する様々な情報を掲載する教育情報誌として広く読まれてきました。日本とは異なり、教員採用試験がないためイギリスでは、教職を目指す人々が教員募集の求人広告を見て応募する教育リクルート情報誌としても使われていました。また、現役の教員や教育学者等による寄稿・投書も多く、様々な議論のフォーラムとしても機能しました。
TESはこれまでもイギリスの教育の実情を伝える専門資料として、昔のイギリスの小中学校の授業の実態を伝える歴史資料として、多くの研究者によって使われてきました。戦前の日本の教育者の間ではTESを購読し、教育の現場に生かす素材として活用した例もあります。
サッチャー政権以降のイギリスでは保守党・労働党を問わず、教育改革が優先的に進められてきましたが、一連の教育改革を逐一報道し、教育大臣等、教育行政の責任者が折に触れて寄稿したTESは、イギリスの教育改革、教育行政をフォローし分析する際にも第一に参照すべきとされる資料です。
さらに、小中学校におけるシェイクスピア教育の在り方など、教育に関する様々な問題を提起してきた同誌は、教育を通してイギリス社会を映し出す資料として、その射程はイギリス教育の研究者に止まらず、イギリスを研究対象とする多くの人々の関心を惹く記事を含みます。
紙媒体、マイクロ媒体でも広く教育関係者や研究者に利用されてきたTESが電子化により機能を充実させて甦り、利用機会が一層拡大することが期待されます。
※本データベースではUK版を収録しますが、スコットランド版についても、UK版と異なるページのみを各UK版の末尾に追加しています。
※1978年12月8日~1979年11月9日の期間は労使紛争で本誌の発行が停止されたため、収録されておりません。
※本データベースには1971年創刊の姉妹誌、The Times Higher Educational Supplement(THE)は含まれません。
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《20世紀英国の教育改革小史》
19世紀後半に初等教育の義務教育化を実現した英国では中等教育の義務教育化が次の教育課題として浮上しました。義務化に向けた改革は第一次大戦下で進められました。総力戦遂行のために国民に総動員を求めた政府は諸々の権利の拡充を約束しました。大戦末期の1918年に実現した女性参政権付与がその代表ですが、同じ年に成立した教育法(フィッシャー法)は義務教育年限の引き上げと中等教育の機会拡大を定めたもので、義務教育としての中等教育を約束するものでした。
しかし、戦後の財政難の中でフィッシャー法の具体化は見送られ、義務教育としての中等教育の約束は反故にされました。ただ、具体化は進まなかったものの、戦間期には中等教育普及に受けた議論が展開されます。特に議論をリードしたのが労働党で、フェビアン協会の経済学者R・H・トー二ー(R. H. Tawney)が労働党の委嘱を受けた報告書『すべての人に中等教育を(Secondary Schools for All)』を発表、また政府が設置した諮問委員会からはハドウ報告(Hadow Report)やスペンス報告(Spens Report)等、中等教育に関する様々な勧告が提出されました。
これらの勧告を経て、すべての人に中等教育を提供する約束は第二次大戦期に果たされます。バトラー教育長官(Richard A. Butler)のイニシアティブの下、15歳までの児童に教育機会を提供することを義務付ける教育法(バトラー法)が1944年に成立、世紀初頭からの懸案だった中等教育の義務教育化が実現しました。バトラー法成立の背景にはTES編集長ハロルド・デントとバトラーとの個人的な信頼関係や、同誌の社説や投書を通じた議論による世論形成が大きな役割を果たしたことも知られています。
1944年教育法はすべての児童に中等教育の機会を提供するという機会均等の原則を骨子とするもので、教育版ベバレッジ報告とも称されますが、その一方で初等教育が終了する11歳の時の試験(イレブン・プラス)により、グラマー・スクール、テクニカル・スクール、モダン・スクールという3種類の中等学校への振り分けを行なう能力主義の要素をも兼ね備えていました。3種類の学校は階層を固定化する側面を持っていたため、これらを統合した総合制中等学校(Comprehensive School)を設置すべきとする考えが特に労働党の中から出てきます。20世紀後半は総合制中等学校の是非が大きな争点となり、長期保守党政権の後、労働党が政権を獲得した1960年代に労働党の影響下にある地方行政当局(Local Education Authority, LEA)によって総合制中等学校の設置が進められました。
20世紀後半は科学技術が発展する中での教育の在り方も大きな争点となりました。大学進学者の増加を受けて、新構想大学など大学の新設が相次ぐ一方で、科学技術の高度化の時代にあって大学教育の内容も問われるようになりました。人文的文化と科学的文化の亀裂を嘆いたチャールズ・P・スノウの講演『二つの文化と科学革命』は大学教育の在り方にも一石を投じました。専門的技能を備えた高度人材の養成が大学に求められるようになる中で、1963年には政府のロビンズ委員会が『ロビンズ報告(Robbins Report)』を提出、高等教育の拡大を提言しました。
経済の停滞と産業の衰退が〈イギリス病〉として語られた1970年代には、戦後福祉国家の公教育制度そのものが槍玉に挙げられます。特に批判の急先鋒になったのが保守党内の急進派で、ブラック・ペーパー(Black Paper)と呼ばれる報告書を発表し、エリート主義の立場から教育における進歩主義と平等主義を厳しく批判しました。この動きに労働党も対応を迫られ、1976年に労働党のキャラハン首相はラスキン・カレッジで演説し、産業社会の要請に応える公教育改革を提言しました。戦後公教育制度における平等理念を擁護する立場にあった労働党党首が公教育の見直しを提言したことは大論争(Great Debate)を巻き起こしました。1944年教育法によって成立した戦後公教育制度は明らかに曲がり角に差し掛かっていました。
その公教育制度を抜本的に改革する役割は保守党のサッチャー首相の手に委ねられました。サッチャーの教育改革の政策メニューは多岐にわたりますが、その主眼は戦後公教育制度の中で大きな権限を有し、労働党の影響下にあった地方教育当局の権限を弱め、学校に対する中央政府の統制力を強める方向での教育ガバナンスの改革にあり、その象徴となったのがナショナル・カリキュラムと全国試験の導入です。これ以後の教育政策は保守党、労働党を問わず、基本的にはこの路線を継承する形で進められることになります。
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