World War I and Revolution in Russia, 1914-1918
本コレクションは、帝政末期、第一次大戦に参戦したロシアが1914年から2月革命と10月革命を経て史上初の社会主義国家を建設、ドイツとの単独講和を結び、国内の反革命勢力との内戦が始まる1918年までの4年間にわたり、ロシアに駐在するイギリスの外交官がロシアの国内情勢をイギリスの外務省に報告した文書を提供するものです。
この時期、ロシア大使を務めていたのはジョージ・ブキャナン(George Buchanan)です。収録文書では、ブキャナンを筆頭にイギリスの外交官が同盟国ロシアの政治家や実業家との人脈を有効に活用し、ロシアの政情に関する情報収集を行ない、逐一外務省に報告しています。そこには、これまで明らかにされなかった貴重な情報が含まれ、従来の仮説を補強、あるいは再検討を促す興味深い事実にも事欠きません。
とりわけ、2月革命後の政治において、ブキャナンをはじめとするイギリスの外交官は、単なる傍観者ではなく、一当事者として時々刻々と変わる政治に関与している様子が収録資料から見えてきます。本コレクションは、外国人の目を通して見たロシア政治史の生きた記録であるとともに、これまで一国史的な枠組みの中で理解されてきた帝政末期からロシア革命にいたるロシア史に英露関係や国際関係の視点を導入させることによって、歴史の書き換えをもうながす資料集です。
【関連インタビュー】
本商品に関する東京大学池田嘉郎先生のインタビューをこちらよりお読みいただけます。
《時代背景》
第一次大戦の勃発はニコライ2世の政府の機能不全を白日の下に晒すことになりました。当初は軍の動員も順調に行われ、緒戦は優位に展開していたロシア軍は、前線へ兵員を輸送し砲弾を供給する態勢の欠陥が開戦後数ヵ月で露呈し、翌年(1915年)にはドイツ軍とオーストリア軍の反撃を受け、いわゆる「大退却」が始まりました。
政府による総力戦体制の構築がままならない状況にあって、前線に物資を円滑に供給する態勢を整備すべく、企業家のイニシアティブの下に、戦時工業委員会が各地に設置されました。また、政府の刷新を求める声が高まり、カデット(立憲民主党)、オクチャブリスト(10月17日同盟)、進歩党らの議員を糾合する進歩ブロックが自由主義者のカデット党首ミリュコーフをリーダーとしてドゥーマ(国会)内に形成され、西欧型の立憲君主制の創設と自由主義改革の実現を目指しました。
しかし、ニコライ2世は進歩ブロックの要求を容れることはなく、自ら軍の最高総司令官に就任し、前線に赴きます。宮廷では皇后アレクサンドラと皇后の信任厚いラスプーチンが影響力を発揮し、大臣の更迭など、政治に介入する末期的現象が現れます。このような状況を前に、ミリュコーフはドゥーマで「これは愚行か、それとも裏切りか」との名高い演説を行ない、政府の戦争指導体制と宮廷を批判しました。農民が兵士として動員された農村では労働力が奪われ、農村経済は深刻な打撃を受けました。都市では食糧価格の高騰と燃料不足により、各地でストライキが発生しました。前線では、長期にわたる塹壕戦により、兵士の間に厭戦気分が蔓延しました。都市と農村と前線で、政府や戦争指導部に反抗する気分が増幅していました。
このような状況の中で、1917年2月、首都ペトログラードでパンを求める女性労働者のデモ行進を契機としてストライキが発生し、次第に専制政治に反対する大規模な政治デモの様相を発展します。政府はデモ隊を鎮圧すべく軍隊を派遣、多数の死者が出ましたが、鎮圧命令を拒否する兵士も続出しました。ここにいたって、立憲民主党と社会革命党が主導権を握っていたドゥーマは帝政を見限り、臨時政府を樹立、ここに300年間続いたロマノフ王朝は崩壊しました。
帝政なき後の政治的空白を埋めたのは、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの二つの権力機関です。臨時政府はリヴォフ公を首班とし、ミリュコーフが外務大臣に就任しました。有産階級の利害を代表する臨時政府は西欧型の立憲民主政治を志向しました。その一方で、戦争継続を主張したため、民衆の間には臨時政府に対する不満が次第に募ります。単独講和の可能性を否定し、戦争継続の決意を表明した「ミリュコーフ通牒」が4月下旬に公表されると、ペトログラードで反政府デモが発生、ミリュコーフは辞任に追い込まれ、社会主義者が臨時政府に参画する第一次連立政府が成立しました。
ペトログラード・ソヴィエトは労働者と兵士の代表が結集した機関で、社会革命党と社会民主労働党メンシェビキが主導しました。急進的な社会民主労働党ボリシェビキは指導者レーニンが国外にあったため、当初の影響力は限られていました。しかし、4月にレーニンが封印列車に乗って亡命先から帰国を果たし、臨時政府の廃止とソヴィエトによる全権力の獲得を呼びかける4月テーゼを発表すると、ペトログラード・ソヴィエト内の勢力地図に変化が起こります。7月には、労働者、兵士、水兵が臨時政府の廃止を訴える大規模な街頭行動を起こしましたが、穏健なメンシェビキ率いるペトログラード・ソヴィエトにより、その要求を退けられます。ボリシェビキは臨時政府により非合法化され、レーニンはフィンランドに亡命しました。
その後、臨時政府は社会革命党のケレンスキーを首班とする第二次連立政権を発足させます。軍の最高司令官に任命されたコルニーロフは、軍や政府からソヴィエトの影響力を排除しようとして、首都への進撃という実力行使を試みるも、労働者や兵士の支持を得られず、反乱は失敗に終わります。コルニーロフの反乱の失敗は、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの帰趨に重大な転機をもたらしました。
コルニーロフを支持した立憲民主党の権威は大きく失墜し、ペトログラード・ソヴィエトではボリシェビキが主導権を握り、トロツキーが議長に就任しました。武力による権力獲得の機が熟したと見て、ペトログラードに戻ったレーニンのイニシアティブの下、ボリシェビキは武装蜂起を敢行し、臨時政府を廃止にいたらしめ、権力を奪取、ここに史上初の社会主義政権が誕生しました。
政権を獲得したボリシェビキは、平和に関する布告や土地に関する布告、階級特権に基づく法の廃止、銀行の国有化、革命裁判所の設置等、一連の措置を行ない、ボリシェビキが統治する一党独裁の道を進みます。対外的にはドイツとの単独講和交渉に入り、ウクライナやバルト地方の独立と賠償金支払いという過酷な条件を飲み、講和条約を締結し、戦線から離脱しました。外務人民委員として講和条約の締結に当たったトロツキーが今度は陸海軍事人民委員として赤軍を率い、国内の反革命勢力との内戦の時代に突入しました。
(マイクロ版タイトル:British Foreign Office: Russia Correspondence, 1914-1918)
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関連分野
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