James Meredith, J. Edgar Hoover, and the Integration of the University of Mississippi
1954年に教育機関での人種隔離を違憲としたアメリカ最高裁の判例が出された後も、教育の現場では人種統合に対する反動が依然として根強く残存していました。人種統合に対する反動が最も強かったのが南部ミシシッピ州で、州最高峰の大学とされるミシシッピ大学ですらアフリカ系アメリカ人に門を閉ざしていました。
ジャクソン州立大学に在籍していたアフリカ系アメリカ人のジェイムズ・メレディスは、ミシシッピ大学への編入試験で優秀な成績を収めたにも関わらず入学を拒絶されると、即座に全国黒人向上協会(NAACP)に支援を求め、訴訟を起こします。第一審では敗訴したものの、控訴審では勝訴を勝ち取りました。しかし、控訴審判決はミシシッピ州の反人種統合感情に火を付けました。強硬な人種隔離論者の州知事は、大学に対して控訴審判決を無視し、メレディスの入学を拒絶するよう命じます。ミシシッピ大学の学生や住民は、メレディスが入学のために、キャンパス内で登録を行なうのを妨害する挙におよび、メレディス入学をめぐり、ミシシッピ大学とその周辺は不穏な空気に包まれます。
ここにいたり、連邦政府は軍隊をミシシッピ大学へ派遣することを決定しました。実は、メレディスはケネディ大統領に書簡を送り、連邦政府の支援を要請していました。当初事件に関与することを躊躇していた大統領も、州知事が公然と連邦裁判所の決定を無視したのに加えて、暴動が発生する恐れが生じている事態にいたり、静観するわけにはいかなくなり、メレディスの入学をミシシッピ大学に要請するために軍事力の使用を許諾する大統領令を発行し、歩兵部隊、空挺部隊、憲兵隊、州兵軍の派遣を決定しました。こうして、メレディスのミシシッピ大学入学の試みは、一アフリカ系アメリカ人による人種隔離への挑戦という問題を超えて、、「南北戦争以来最も深刻な連邦政府と州政府の闘争」(『タイム』誌)という性格を帯びるにいたりました。メレディスは連邦保安官の護衛により、入学を果たすことができましたが、人種統合に反対する学生や住民が暴動を起こし、2人が死亡し、数十人が負傷しました。
本アーカイブは、メレディスがミシシッピ大学への入学を試みる1961年から入学を果たす1962年までのメレディスの闘い、それに対するミシシッピ大学の大学関係者や学生、住民の妨害に関する連邦捜査局(FBI)の文書を提供します。NAACPとの書簡等のメレディスの書簡、裁判資料、新聞記事の切抜き等、約8,800ページの文書を収録します。本コレクションは、公民権運動を抑圧する立場にあったFBIの文書を通して、メレディスの入学を契機に発生した暴動に光を当てるものです。
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関連分野
- アメリカ史
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