The Chamberlain Papers: The Papers of Neville Chamberlain
本コレクションはバーミンガム大学図書館が所蔵するチェンバレン家文書よりネヴィル・チェンバレンの文書を収録します。バハマ諸島のプランテーションの経営者を経て政治家に転身し、バーミンガム市長を経て下院議員となり、保健大臣や大蔵大臣の要職を歴任し、首相に就任し戦争回避に努めるも第二次大戦開戦を阻止できず、失意のうちに世を去ったネヴィルの71年の生涯が日記や書簡等の文書を通して光を当てられます。ネヴィルの私生活を明らかにする家族と交わした書簡も収録されています。仲の良かった二人の妹(アイダ、ヒルダ)と交わした書簡はネヴィルの素顔を浮き彫りにします。また母方のケンリック家を含む祖先に関する書簡や文書も収録されています。戦間期の英国政治に関する貴重な一次資料です。
植民地相を歴任し、関税改革運動を推進したジョゼフ・チェンバレンの次男としてバーミンガムに生まれ、外務大臣としてロカルノ条約締結に尽力したオースティン・チェンバレンを異母兄に持つネヴィル・チェンバレンは、若くして政治家の道へ進んだオースティンとは異なり、会計事務所での勤務やカリブ海のバハマ諸島に父が所有する麻のプランテーションの経営を経て、故郷バーミンガム市の市政に携わり、市長に就任した時は既に46歳になっていました。第一次大戦中にロイド=ジョージ首相の求めに応じて軍事・民生両面での国民総動員を監督する国民動員局長官を務めた後、1918年の総選挙で保守党から立候補し当選、父や兄と同様、庶民院議員の道を歩み始めました。
その後、急速に頭角を現し、保健大臣として老齢年金の拠出制への転換と受給年齢の引き下げを骨子とする1925年寡婦・孤児・老齢年金法を成立させ、保健省を社会保障制度の基幹省庁に格上げする上で大きな役割を果たしました。世界大恐慌が吹き荒れる中で1931年に成立したマクドナルド挙国一致内閣では大蔵大臣として輸入品に10%の関税を課す輸入関税法、英国と自治領での特恵関税制度を定めたオワタ特恵関税協定を成立させ、自由貿易体制から保護貿易体制への大転換を果たすことになりますが、これは30年前に父ジョゼフが提唱しながらも果たせなかった悲願を実現したものでした。
仮にネヴィルの政治家人生がここで終了したのであれば、第一次大戦によって疲弊した英国が抱える様々な問題に対処すべく、改革を成し遂げた政治家として人々に記憶されることになるはずでした。しかしネヴィルは首相に就任し、ナチス・ドイツに向き合う必要に迫られることになります。ネヴィルは戦争の回避を最優先課題として掲げ、この目的を達成するために対独宥和政策を推進します。1938年3月のオーストリア併合を経て、チェコスロヴァキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに併合されることが同年9月のミュンヘン会談で容認されたことにより頂点に達した宥和政策は、1年後の第二次大戦の勃発により破綻します。ネヴィルは開戦2年目の1940年5月に辞任し、宥和政策に反対したチャーチルに首相の座を譲り、同年11月に世を去ります。
(マイクロ版タイトル:The Chamberlain Papers, Series One: The Papers of Neville Chamberlain)
《バーミンガム大学図書館所蔵 チェンバレン家文書集》
- ジョゼフ・チェンバレン文書集
- オースティン・チェンバレン文書集
- ネヴィル・チェンバレン文書集
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- 政治学・外交研究
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